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株式会社アシックス

敗戦直後の神戸にひとり降り立った鬼塚喜八郎。非行に走る少年、売春婦になる少女。そんな光景を見た鬼塚は、自分の一生を「日本の青少年の育成」に捧げることを決意する。世界的メーカー「アシックス」の創業者である鬼塚喜八郎は、起業の極意は「私心なき素直な心」だと言う。そして、取材の当日。85歳を過ぎた鬼塚に、起業家の気迫はいまだ健在だった。
※下記はベンチャー通信10号(2004年6月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。


【起業家の軌跡】

―<人生を変えた一通の手紙>

 鬼塚喜八郎(旧名:坂口)は、1918年(大正7年)に鳥取県で生まれた。実家は田舎の村長をしている家柄。昭和11年、旧制鳥取第一中学校を卒業後に、軍隊に入る。7年間の軍隊生活をした後に、復員して郷里の鳥取に帰った。そんな鳥取に帰ってホッとしていたところに、鬼塚のもとに一通の手紙が来る。それは神戸に住む鬼塚夫婦の手紙だった。

 実は、鬼塚(当時:坂口姓)の戦友に上田という中尉がいて、お互い非常にウマがあった。鬼塚は、その上田中尉と共にビルマ(現:ミャンマー)作戦に行く予定だった。

 ところが出発の3日前になって、鬼塚(当時:坂口姓)だけが連隊長に呼び出され、「坂口少尉、キミはビルマに行かなくてもいいから、日本の留守部隊に残れ!」と、突然の通告。鬼塚は納得ができない。しばらく応酬が続いたが、そこは軍隊。上司の命令は絶対である。鬼塚はしょうがなく日本に残ることになった。

 そんな折、鬼塚は戦友の上田中尉から頼みごとをされた。「実は俺には神戸に身寄りのない鬼塚という老夫婦がいる。俺はこの老夫婦に一生面倒をみてやると、約束してしまった。しかしビルマに行って、生きて帰れる保証はない。そこでお前に頼みがある。もし俺が生きて帰れなかったら、俺の代わりにその老夫婦の面倒をみてくれ」と。

 その申し出に、鬼塚は「任せろ!その鬼塚老夫婦の面倒は、君に万が一のことがあれば、俺がみるから安心しろ!」と答えた。そんな男の約束をした鬼塚のもとに届いたのが、神戸に住む鬼塚夫婦の手紙だった。あとで、上田中尉は終戦直前に師団参謀として現地指揮中に戦死したと公報で知り、求めに応じて鬼塚姓となり鬼塚老夫婦を養うことを決断した。

―<ビールの横流しなんかで、自分の一生を終えてたまるか!>

 手紙には、「いま神戸は焼け野原になっている。私たちは歳をとって職もなく、食うに困っている。出征間際、上田中尉から貴方様のことを聞いていた。ぜひ神戸に出てきて、私たちを助けて欲しい」というようなことが書かれていた。

 その手紙を受け取った鬼塚は、「男の約束だ。破るわけにはいかない」と、神戸に出てくる決意をする。しかし、家族は大反対。

 当時の神戸は、一面が焼け野原で、犯罪も多発し、無秩序だった。港町である神戸には、無数の外国人がたむろして、彼らに好き勝手にされていた。そんな神戸に、鬼塚は家族の反対を押し切って出てきた。そして、まず食っていくために商事会社に就職する。就職したその会社は、商事会社というのは名前だけで、実際は闇屋だった。進駐軍専用のビアホールを経営し、仕入れたビールを不正に横流ししたり、経営者自身も会社を私有化し、私利私欲に走っていた。

 そんな経営者の不正に耐えかねた鬼塚は、3年でその商事会社を退社した。しかし、会社を辞めたのはいいが、家には身寄りのない老夫婦がいる。何とかして食っていかなければいけない。

―<なんのために戦友たちが死んでいったんだ>

 そんな時、鬼塚にずっと気になっていることがあった。それは青少年の非行だった。神戸の三宮には、空襲で家を焼かれて身寄りのなくなった青少年たちが非行に走っていた。進駐軍を相手に売春を繰り返す少女たち、俗に言うパンパン。麻薬、覚せい剤に溺れる若者。

 そんな目に余る光景が、当時の神戸にはあった。その光景を見た鬼塚は、「新しい日本は、いったいどうなるのか。何のために多くの戦友が戦争で死んでいったのか。このままでは、あの死んでいった戦友たちに申し訳ない。これからの新しい日本の建設のために、俺は次代を担う青少年の教育に一生を捧げよう!」と決意した。

 しかし、教育といっても、教師でもない鬼塚に具体的な方法は思いつかない。「青少年を立派に育てるための仕事をしたい」と思っても、気持ちが空回りするばかり。そこで、戦友だった堀公平という一人の男を思い出した。当時、堀は兵庫県の教育委員会で体育保険課長をやっていた。その堀に会いに行けば、何か教えてくれるかもしれない。さっそく鬼塚は堀に会いに行った。

―<青少年の健全な育成は、スポーツが最高>

 その堀に青少年の教育について問うと、堀から意外な答えが返ってきた。「健全なる身体に健全なる精神が宿る、との格言があるように、教育の原点は、心身ともにバランスよく成長すること。知育・徳育・体育と三位一体となって育成できるスポーツが最適である。スポーツマンシップを根幹にスポーツで鍛えることで、青少年は立派に育つ。だから、君はスポーツの振興に役立つ仕事をしたらどうだ」。

 堀はそんな話をとうとうと鬼塚に話した。話を聞いた鬼塚は、スポーツの素晴らしさに感激。それ以降、「スポーツによって、青少年達を立派に育てる」ことに、一生を費やす覚悟を決めた。

 しかし、軍人だった鬼塚は、GHQにより教職などの公職に就くことが禁止されている。そこで堀は、鬼塚に「スポーツ振興に役立つスポーツシューズを作れ」と勧めた。「いま少年達は、裸足でスポーツをしている。スポーツをしたくても、足を痛めたりして困っている。だから良いスポーツシューズを作ればそのシューズで彼らが立派に育っていくんだ。どうだ、やってみないか」。

 その話を聞いた鬼塚は、「そうか、分かった!俺の半生はスポーツシューズに賭ける。青少年たちにスポーツシューズをはかして、彼らがスポーツを通じて立派な人間になることを手助けするぞ!」、そう心に誓った。

 そして、鬼塚は靴メーカーが集積している長田区に行き、堀が紹介してくれた工場で働くことにした。1年後に独立するつもりで、工場で修行した。靴を自分で作るためには、技術を覚える必要があったのだ。

―<抜擢した副社長が、無謀な多角化に走る>

 1年後の1949年、鬼塚は独立を果たす。シューズ専門メーカー「オニツカ株式会社」を創業。数々の画期的な商品開発によって、会社の知名度も上がり、事業は急成長した。しかし、そんな鬼塚にも危機が訪れた。後継者として副社長に抜擢した社員が、急激な事業の多角化を推し進め、資金繰りが悪化したのだ。神戸大学を卒業後、大企業に就職したエリートの副社長は、「社長、あなたの考え方は古い。いまは高度経済成長の時代です。右肩上がりの成長はまだまだ続く。だから事業の多角化を進めないと、会社は発展しません」。そんなことを言って、鬼塚の話に聞く耳を持たない。

 折わるく昭和39年にはインフレ抑圧のため銀行の貸出がストップし、資金不足で会社は急激に傾きだした。このままでは潰れてしまう。何とかしなくてはいけない。鬼塚は決断した。副社長を平の役員に降格させて、仕事からいっさい外した。また多角化した事業を切り捨て、本来のスポーツシューズメーカーに特化して、その年の東京オリンピックに照準を合わせた。まさに選択と集中である。かくして一点集中作戦を貫行したおかげで、逆に会社は強固な組織となり、社員間の信頼関係も強くなり、やがて無借金経営の専業メーカーとして「オニツカタイガー」ブランドは世界市場で認知されるまでになった。

―<世界的スポーツ用品メーカーに成長>

 その後もいくつかの試練を乗り越え、世界の三大スポーツシューズメーカーの一社に成長した。さらに昭和52年には総合スポーツ用品メーカーへ脱皮するためにオニツカ株式会社を中核として、スポーツウエアメーカー等の2社と合併し「株式会社アシックス」を発足、鬼塚が社長に就任した。同社をシューズ、ウェアをはじめとした総合スポーツ用品の世界的メーカーに育て上げた鬼塚喜八郎。その鬼塚に、起業家精神とは何かを聞いてみた。