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株式会社堀場製作所

京都という土地が生み出した、元祖学生ベンチャー社長。妥協なきホンモノ志向。ゆるぎない信念。やるからには、ナンバーワン、オンリーワン。太平洋戦争、敗戦、高度経済成長、バブル崩壊、そして現在。幾多の困難をくぐり抜けてきた百戦錬磨の堀場雅夫は、一代で世界に通用する企業を築きあげた。いまや日本を代表する技術開発企業である。そんな堀場の口癖は、『おもしろおかしく』。今日の日本と歩みを共にし、常に真剣に生きてきたこの男だからこそ言える、この言葉。
※下記はベンチャー通信10号(2004年6月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。


【起業家の軌跡】

 堀場雅夫は、1924年(大正13年)12月1日に京都市で生まれた。京都帝国大学の理学博士だった父親の教育方針は、「自由放任主義」。幼い頃は野山を駆けめぐって育った。父親とは対照的に母親は心配性だった。母親からはよく叱られることもあったが、堀場少年は恵まれた幼少時代を過ごす。

 しかし堀場が小学4年生の時、突如不運が襲いかかる。小児リュウマチにかかってしまったのだ。堀場は静養を余儀なくされる。その静養中の寂しさとリュウマチの痛みを紛らわすため、堀場は模型飛行機に熱中した。幼心ながら、モノ作りに対する想いは、この頃に培われたのかもしれない。

 その後、小児リュウマチの転地療法のため、神戸の甲南高校へ進んだ。しばらくすると病気もすっかり良くなり、高校では一転、ラグビーに打ち込む。熱心に打ち込んだ甲斐あって、高校ラグビー全国優勝という快挙を成し遂げた。またラグビー部のほかには、無線クラブにも所属。太平洋戦争中には、なんと米軍の放送まで傍受していたという。

 そして大学は、憧れの先生がいるからと、京都大学の物理学科を志望。物理学科には就職口がないと周囲は猛反対。しかし反対する周囲を一蹴し、進学を決める。そんな風に、若い頃から好きなことならトコトン追及した。

 京都大学の在学中は戦時中だったので、満足に勉強することもできない。そして、ついに日本の敗戦。大学の実験設備はことごとく破壊され、堀場は途方にくれる。そして自分の進路に迷った末に、『自分のやりたいことは、自分でやればいい』と、個人的な研究所(堀場無線研究所)を作ることを決意。これが我が国初の学生ベンチャーの誕生である。

 なんとか大学は卒業したものの、朝鮮戦争のせいで、今度は極度のインフレに襲われる。思うように物事が進まない堀場を支えたのは、天性の「京都人のこだわり」だった。そして、数々の困難をくぐり抜け1953年(昭和28年)には、現在の堀場製作所を設立。会社の方針は、『おもしろおかしく!』。世界に誇る最先端技術はもちろんのこと、週休3日制を導入するなど斬新なアイディアでも常に時代の先頭を走り続けてきた。まさに戦後の日本経済と歩みを共にしてきた元祖学生ベンチャー。そして今回、その元祖学生起業家に直撃してみた。

写真は堀場製作所創立時の本社 (1953年)