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日清食品株式会社

幼い頃に両親を亡くし、商人の祖父母に育てられる。22歳の時に、最初の会社を興すが、その後、太平洋戦争に突入。時代の波に翻弄されながらも、いくつかの事業を立ち上げる。48歳の時に、世界初の即席めん「チキンラーメン」を発明。そして、即席めんの工業化を成功させて日清食品を創業。その後は、即席めん業界の健全な発展のために尽力し、即席めんの市場規模は、現在、5000億円を超えた。48歳の再出発は、遅かったかもしれない。しかし、安藤百福は「私が即席めんの開発に辿り着くには、それまでの48年間の人生は必要だった」と語っている。激動の時代を駆け抜けたこの気骨ある明治人。93歳になった今も、日清食品の経営に采配をふるう安藤百福。彼の波乱の人生から学ぶことは、あまりにも多い。
※下記はベンチャー通信9号(2003年12月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。


【インタビュー前編】 戦前のいい思い出

―小さい頃から起業家を目指していたんですか。

自分で独立して商売をしたいとは思っていましたよ。私は幼い頃に両親を亡くして、祖父母に育てられました。祖父は厳格な人で、幼い頃から雑用などいろんな仕事を言いつけるんです。

幼い頃から、役目、分担を与えられたので、自然と自立心が芽生えていったんです。また仕事の仕組みが分かると、自然と興味もわいてくる。祖父の家は朝から晩まで、たくさんの使用人がせわしなく働いている。店に出入りする商人たちのざわめき。すごく活気があった。そんな光景を見ていて、「商売って面白いんだな」って感じたんです。

―やっぱり小さい頃から自立していたのが、大きく影響していたんですか。

そうですね。甘えたくても甘えられなかったんです。両親もいないし、自分で自立して生活していくしかない。そんな状況だったんです。人間は本来、弱い存在ですよね。ともすれば、すぐに人に頼ろうとする。人に頼ると、自分で考えることをしなくなるんです。

―若い頃の経験で、今でも印象に残っていることはありますか。

ちょうど20代の頃、まだ私がメリヤスの輸入販売をしていた頃です。飛び込みで日本一のメリヤスメーカー「丸松」の工場に行きました。最初は「若造が何をしに来たんだ」というような対応で、けんもほろろだったんですが、しばらくすると私の熱意も認められて、その工場長と仲良くなったんです。藤村さんという工場長なんですが、歳は50代で私はその時まだ20代。親子ほどの年の差がありました。

でも不思議と気が合って、自宅に呼んでもらったりしたんです。そんな藤村さんが、「飛行機に乗ろうか」と誘ってくれたことがあった。大阪の八尾空港に行くと、翼が布張りの単葉機がある。翼を叩くと、ボンボンって太鼓みたいな音がした。本当にこんな飛行機で大丈夫なのか。少し不安になりました。

東京までの2時間ほどの行程は、とてもエキサイティングでした。パイロットに「どうですか。安藤さんも操縦してみますか」って言われた。調子に乗った私は、操縦桿を握った。そしたら、いきなり機体が激しく揺れる。私は、飛行機はおろか自動車の運転も知らない。機体は急上昇したかと思うと、急降下する。「おい、大丈夫か」。藤村さんは真顔で私に言う。でも私は愉快この上ないといった気持ちだった。とても楽しいフライトでした。戦前のいい思い出です。

―いまの学生を見て、思うことはありますか。

自分が若かった頃は、大学に行ける人なんて、ほんの一握り。みんな必死になって働いていた時代です。現在の日本は豊かになって、ハングリー精神も薄れてきた。若い人たちが遊び気分で大学生活を過ごすのを見ていて、うらやましいというより、大切な時間を浪費しているのが、かわいそうな気になります。

青春を楽しむのもいいけど、学ぶときは学び、働くときは働くべきです。そして、学んだり働いたりすることに喜びを見出せないと、真の幸福はつかめないと思います。私は日清食品という会社を、仕事を通じて人間らしさを学べる場所にしたいと常に考えてきました。