japan-business-headline

株式会社ファーストリテイリング(ユニクロ)

柳井正は根っからの異端児だった。高校時代のあだ名は「山川」。人が山と言えば、自分は川。人と同じことはしない。実家の家業を継いだ後も、親の言うことには耳も貸さず、ただ自分の目だけを信じた。香港で出会ったSPA(製造小売業)。世界を見渡せば、年商数千億のカジュアルチェーンは全てSPA。「だったら日本のチェーン店がやっていることは全部間違っている」。そう考えて、日本でSPAの巨大チェーンを築くことを決意する。そんなユニクロは、2001年の売上高が4000億円を突破した。ユニクロの柳井正とは、いったいどんな男なのか。その秘密を探ってみた。
※下記はベンチャー通信8号(2003年7月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。


【ユニクロ世界進出までの軌跡】

柳井正は1949年2月に山口県宇部市で生まれた。実家は洋服店と土建業を兼営していた自営業。柳井は地元の宇部高校を卒業後、早稲田大学政治経済学部に入学する。しかし大学では学園紛争の真っただ中。学生運動の活動家には辟易した。一本調子でワンパターン。本当に、自分の頭で考えているのか。そんな柳井は典型的な無気力学生だった。麻雀、パチンコ、寝る。その繰り返し、商売なんてさらさら興味もない。

大学卒業後は、父親の勧めでジャスコに入社。でも仕事が全く面白くない。「早く辞めたい」とただそれだけ。一年も経たないうちに退社し、宇部に戻る。実家では家業の紳士服専門店を一手に任され、商売の面白さに目覚める。

しばらくして柳井にアイデアが閃く。本屋やレコード屋のように、ふらっと入ってふらっと出てくる。そういう洋服店をやれないか。また今はメーカーが上代(小売価格)を決めている。こんなのは商売じゃない。自分たちで商品を作って、自分たちで価格を付ける。それが本当の商売だ。そんなことを悶々と考えながら、柳井は80年代半ば香港でジミー・ライに出会った。ジミー・ライは12歳で広州から香港に密入国し、SPA(製造小売業)のカジュアル専門店チェーン「ジョルダーノ」を創業して巨富を築いた人物。「彼と僕は同い年だった。だったら自分にもできるんじゃないか」。SPA(製造小売業)の可能性を知った柳井は、日本でSPAチェーンを展開することを決意する。

その後、ユニクロは初めての都会である広島県に進出。しかし広島でのユニクロの知名度はゼロに近い。なにか一発で有名になる秘策はないか。考え出したのが、朝6時半の開店。「10時に開店しても、その時間帯は若い人は学校に行っている。だったら、登校前に店を開ければいい」。そして開店当日。ドアを蹴破るようにしてお客がなだれ込んだ。

またユニクロの一大転機となった原宿出店。ユニクロの印象は「田舎から出てきた安売り屋」だった。ファッション雑誌の編集者はみんな失敗すると思っていた。「おじさんサイズ、ばあさん色。本当にダサイ」。そんな状態では成功するはずもない。柳井は一気に商品を作り直すことを決意。目玉はフリース。また納得できる商品しか店頭に置かないようにした。結果、ふたを開けてみると原宿店は大成功。またこの原宿店の成功は、今後のユニクロの行く道を示してくれた。

そして2001年8月期には、ユニクロの売上げが4185億円にまで達する。目指すは世界一。2001年9月には英国ロンドンに4店舗を同時にオープン。また中国の上海にも進出した。今後10年の間に売上げ2兆円を目指すユニクロ。そんな世界戦略を描く柳井正を直撃してみた。